判官贔屓(平家編)
今回は昨日、Twitterにてフォロワーとちょっとした歴史会話から、ふと思い出した(というより思考の中から湧き上がった)私の判官贔屓について語ろうと思う。
今回は、平安末期に栄華を誇ったかの平清盛を中心とした「平家」について。
平家がどういう一族(桓武平氏の中で)だったかは各自の知識に任せるとして、壇ノ浦で安徳帝とともに海底へと身を投じ、滅んだ平家一門。
私は源平で言えば平家を推す人間だ。
小学生のころに買ってもらった歴史入門漫画でその存在を知ってから、かねてより判官贔屓の心を抱いていた。
彼らが行ってきたこと全てが正しいとかは言わないが、いくつか言わせて頂きたい。
まず、一つ。
平家は安徳帝と三種の神器を伴い、西国へ落ち延び、京では後白河院により後鳥羽帝が神器なしで即位し、天下に二人の天皇が並び立った(天下に天皇が二人もいたのは安閑天皇、宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷など前例がある)。
後鳥羽天皇が治天の君により即位したことでこちらに正統性があると普通は思うかもしれないが、私は入水するまでは安徳帝が正統だと思っている。
三種の神器を保持してる天皇にこそ正統性があるのだ。これはれっきとした事実である。
その正統な安徳帝が二位尼に抱き抱えられ入水し、幼い命を絶ってしまったのがとても悔やまられる。
二つ目。
かれは平宗盛より、立派な人物だった。
そんな彼が早くに逝去したのはとても残念だ。
彼が平家一門を率いていれば、また違っていただろう。
そして、宗盛により冷遇された重盛の子息たちも、上手く言葉に出来ないが、なんだか可哀想に感じる。
三つ目は、平忠度。
薩摩守忠度公。
彼は藤原俊成に和歌を習い、文化人な人物だった。
彼の詠んだ和歌が、千載集に「詠み人知らず」として載せられた。
なぜ、「平忠度」ではなく「詠み人知らず」で載せられたのか。
それは忠度が、後白河により朝敵とされてしまった平家一門の一員だったからだ。
平家物語にも、平家が京都を離れる前に忠度と俊成のやりとりがある。
俊成もさぞ、忠度のことを惜しんだであろうことが伝わってくる。
一ノ谷の戦いで、41歳で戦死したのが惜しいと思う。
ほかにも、平教経や平敦盛、平高清(六代)、悪七兵衛景清など多数にわたり、判官贔屓の感情が湧いてきてしまう。
歴史の敗者となってしまったが、それでもあとに続く日本の歴史にその名を残して武家政権の基をつくり、現代でも語られる事が、彼らの大きな功績だと思った。
その平家に、私は今も畏敬の念を持っている。
今回もあまり上手いように書けなかった。
なかなか難しいものである。
歴史の中で、皆さんも好きな武将や好きな一族はいると思います。逆もまた然り。
それでも、この文を読んだとして、あまり否定的な意見などは言ってもらいたくない。
あくまでそれは胸の内に押し込んでいて欲しい。
稚拙な文を書かして頂いたが、思ったことを書くことができただけでも良かった。
そういうわけで、今回はここで終わる。
次は南朝について書きたい。